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統一教会 勝共連合 清和会 戦後保守とは?②

2022/08/01

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 -ヤフーニュース-  2022年7月12日記事

『旧統一教会・戦後保守・岸信介…安倍元総理銃撃事件犯人の世界観とは?』

 古谷経衡作家/文筆家/評論家



https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20220712-00305301 >




・アメリカの反共戦略と韓国


そこでアメリカが極東戦略の一環として、「東アジアにおける反共親米国家の精神的・理念的主軸」として目を付けたのが1960年代の韓国であった。クーデターを経て1963年に朴正熙大統領が正式に政権を握ると、朴政権は強烈な反共主義を鮮明にし、反共親米軍事独裁政権を1979年まで続けることとなった。

この朴政権の期間中、1968年に韓国と日本でほぼ同時に設立されたのが「国際勝共連合」である。「国際勝共連合」はその名の通り反共産主義を掲げる(勝共運動と自称する)政治団体だが、実質的には旧統一教会の傘下団体である。旧統一教会は、創立者である文鮮明氏が日本の敗戦直後から韓国で活動を始め、1954年、正式にソウル市にて「世界基督教統一神霊協会」(略称:統一教会)を創設した。

ともあれ「国際勝共連合」が旧統一教会を母体に設立されたのは間違いなく、ここにはアメリカの極東における戦略が見え隠れした。韓国は日本の植民地支配により国家神道を押し付けられた反発があり、神道以外の価値観を受容する素地があった。当然、事実上の国境を共産国家の北朝鮮と隣接している分断国家なので、共産国と海を隔てている台湾、フィリピン、タイとは違い反共主義が広がる説得力がある。また前述の通り朴政権は親米軍事独裁政権であったのでさまざまな外部からの支援がやりやすい環境にあったからである。

では岸信介と旧統一教会の関係とは何か。「国際勝共連合」が設立された1968年、岸はすでに総理大臣では無かった。岸内閣は1957年~1960年まで約3年半続き、最終的には日米安保条約の改定(いわゆる60年安保)をして総辞職したのち、池田勇人と佐藤栄作の長期政権が続く。しかしながら、「国際勝共連合」が設立されるはるか前から、日本の保守層と旧統一教会の関係はあった。

敗戦により軍隊を喪失した戦後日本は警察力しか保持できず、そして新憲法により民主警察として刷新されたため、反権力を掲げる共産主義者などの騒擾やデモに対し、有効な物理的抑制力を欠いた。1950年にGHQの意向のもと、警察予備隊が創設され事実上再軍備をし、1952年に保安隊、そして1954年に自衛隊となっても、彼らを国内の騒擾やデモの鎮圧にあたらせるのは、戦中の暗い時代の記憶が生々しく残る当時、”軍隊アレルギー”がことさら強く世論的に不可能であった。

こうした中、いわゆる左翼勢力、共産主義者らを物理的に抑制する手段として反社会的勢力が介在した。これらの背景に居たのは、児玉誉士夫などに代表される右翼の大物である。そして児玉誉士夫は戦中・戦後を通して保守政界に幅広い人脈を持った。この中の一人に岸信介がいた、という理解で大筋はよろしかろう。岸はA級戦犯ながら不起訴・釈放とされたが、その背景には、「逆コース」があるとされ、アメリカには恩があった。こういった関係から、岸は60年安保の改定反対運動に対し、対抗措置として右翼を用いることを考えた。岸と右翼人脈の接近である。


・国際勝共連合と清和会


戦後の右翼はのっけから厳しい環境に置かれた。そもそも軍国主義が敗北したのちの戦後日本で、公然と「愛国」だの「祖国愛」だのを掲げること自体、社会的にマイノリティーであるとされ、蔑視に逢った。

こういった戦後右翼の中には、前述したように反社会的勢力として生きる道を選んだ人々が居たことは事実であった。なぜなら彼らは差別されており、表社会での活動が制限されていたからである。彼らにとってみれば、日本の植民地支配の被害に遭った韓国発祥の旧統一教会やそれに関連する政治勢力に、信者でなくとも親近感を抱くのは道理であろう。もちろん、そういった事情の枠外で、岸信介は戦後右翼や旧統一教会をうまく利用した側面があったことは否めなかった。こうして、旧統一教会・戦後保守・岸信介、ないしは国際勝共連合・戦後右翼・保守政治家の一部が接続していった。

さて1968年に国際勝共連合が設立された当時、日本の政権は自民党の佐藤栄作内閣であった。この年、日本のGNPは西ドイツを抜いて世界第二位になり、堂々「経済大国」の地位を確立させた。岸は反共親米色が強く、岸の次は宏池会の始祖・池田勇人になり容共色があった。その次の佐藤内閣も、岸とは派閥の違う佐藤派(当時)の領袖で、容共色があり、基本的にはこの佐藤内閣下で共産国・中国との国交回復交渉が行われる。

私が何を言いたいかというと、国際勝共連合が如何に反共親米の色濃い政治団体で、岸を筆頭とする日本の保守政治家とパイプがあったとしても、自民党の全てにいきわたっていたわけではない、ということだ。

戦後の自民党史を俯瞰すると、吉田学校と呼ばれた吉田茂を母体とする政治勢力、これがのちの宏池会や経世会系になるわけだが、これを「保守本流」と呼び、自民党の屋台骨であった。一方、反吉田茂を鮮明にした政治勢力、これがのちの清和会になるわけだが、これを「保守傍流」と呼び、この源流は鳩山一郎、岸信介などである。

自民党とはつまり、概観すると吉田系の宏池会と経世会系、反吉田系(鳩山系)の清和会というふたつ(或いは三つ)の巨大勢力から成立している。なぜか。そもそも自民党はこの異なる勢力が合併して成立したのだから当たり前である。この二者の合併を「保守合流」と呼ぶ。政策的な違いは、吉田系が「ハト派的、護憲的、親米、アジア外交、大きな政府」、鳩山系が「タカ派的、改憲的、親米、反共、小さな政府」である。本当はもっと細かいが、物凄く大きくまとめるとこうなる。そして国際勝共連合が影響を持ったのは後者の鳩山系、つまりは岸と、のちの清和会である。なぜなら清和会は反共親米タカ派であり、国際勝共連合もまた反共親米タカ派だからである。そして最終的にはアメリカの極東戦略、つまり反ソ政策(反共)に影響されていたのである。

佐藤内閣の次は、田中角栄の時代になった。田中は独自の派閥(田中派、のちの経世会系に繋がる)を作り、1970年代はいわゆる「三角大福」の時代の到来だった。つまり三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫である。時系列的には、田中→三木→福田→大平の四内閣が交代していき、1980年まで続く。この中で清和会の直接の始祖となったのは福田だが、約2年で終わっている。国際勝共連合は基本的にこの清和会に影響を持ったが、福田の時代は前述の通り長くない。



③に続く



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統一教会と勝共連合は、CAIを通じて、同根であり、ロックフェラーの支配下です。

自民党の清和会は、統一教会と勝共連合に支配されており、親米派と言う名の売国奴だったのです。

歴史を見てみれば、自民党の清和会は保守傍流なのに、保守の主流派のフリをして、まともな自民党の人物を潰してきていたのです。

今の自民党は、統一教会と勝共連合に牛耳られており、秋篠宮家を天皇にしようとする勢力なのです。

自民党の清和会が、まともなワケありえません。

まぁ、公文書の隠蔽や改竄など好き放題になっている現状です。

テレビや新聞もグルであり、まともな報道をせず、国民を長年にわたり騙していた事を知りましょう。




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